大学に入るまで浪人をしたり、エキストラをしたり、塾の講師をしたりしていました。
医学部が諦められなかったのです。
あるときに高校時代の教会の仲間(高校時代は熱心なクリスチャンだった)と飲み会をしました。
たしか渋谷だったと思います。
だいたいは大学生になっていました。
予備校の先生から大学の話はいろいろきいていました。
さらに私は当時からオタク気質でしたのでいろいろと調べる性根でした。
同じ年の女の子がいました。
彼女がコンパや飲み会の話をばっかしているのです。
酔った勢いで彼女の行ってみました。
「〇〇ちゃんは〇〇大学コンパ学部飲み会学科なの?」
彼女が怒るのも当然です。
「私は社会学部社会学科だ!」
といってきました。私も知っているのに「社会学ってなんよ?」と応戦しました。
彼女な何も答えられません。私が、
「そこにあるおしぼりも割り箸でも社会学を語れる。それが社会学だ」といったら、
「あなたは大学に行っていないのにそんなことをいう資格はない!」と言われてしまいました。
そうです。「大学に行っていない」といわれたらそこまでです。
一緒にいた附属から東海大学にいった子もいました。彼女は自分の専攻や学問内容を明確に話していました。
1年上で兄貴分の亜細亜大のお兄さんも自分の勉強する国際関係学が面白いし、亜細亜大とか言われても勉強できる環境も先生もいる」と自信満々でした。
コンパ学部の彼女とはこの時が最後でした。30歳のときに留学をして留学先で事故に遭って亡くなってしまいました。
もう「コンパ学部」に関して語ることも、反論することもできないです。
私はこの時に大学の入ったら「コンパ学」は絶対にしないと思いました。
大学に入り水を得た魚のように勉強をしました。
朝、大学に出て、夕方から塾か家庭教師、深夜に帰宅して大学の勉強。
電車での往復は読書。
3日で2冊の本を読む計画です。
国文学科にいたときは大学受験や高校受験に生かせる勉強も多かったのです。
例えば用言の活用。サ変、カ変、形容詞、形容動詞以外は覚えることはないとか、古典の解釈をわかりやすく本格的にするとかいろいろ編み出しました。
社会福祉学科のときは大学の授業や家庭教師の合間で時間を作って施設周りやボランティアをしたり、知的障がい者施設で短期でアルバイトを同級生たちと一緒にしたりしていました。
進級試験が終わるのを待って阪神淡路大震災後の神戸にゼミ仲間と飛んで行ったこともありました。
ゼミの仲間と江の島に日帰り旅行にいったこともありました。いつもゼミの発表や研究で一緒で仲良しすぎて晴れた惚れたの関係ができない雰囲気でした。
飲み会もやりました。同級生のO君が置いてあるおしぼりで排泄介助の話になり大激論になったこともあります。
合コンもやりました。某大学人間福祉学部と兼任の先生が「合コンやろう」というので学科の女子と男子に声をかけました。池袋でやったのですが、集まったみると全員男子。同級生のO君が議論をふっかけました。相手の大学生は1年上ででしたが、僕らの議論を呆気にとられて聴いていました。それに先生も加わって大激論になりました。
帰りに相手の大学の大半の学生が私と同じ方向でした。そのリーダーの人が「ボクたち、全然勉強できていない。君たちはすごいよ。焦ってきた今でも開いている本屋さんないか?」ときいてくるくらいでした。
合コンをやっても勉強ばかりでした。
商社のPHS(簡易型携帯電話)営業を全国でやって商社2社からオファーがきました。断りましたが。
よく学び、よく稼ぎ、よく遊びました。
大学は勉強をするために行くことをずっと予備校で叩きこまれていたのもあったのでしょう。
自分で学資を負担していたことで損をしたくない気持ちもあったのでしょう。
大学生活を誰にも蔑まされたり、馬鹿にされないという自信があります。
しかし、まだまだ、やり残した勉強がたくさんあっての卒業でした。